アゴラ : 裁判員制度に関する(極めて私的な)雑感 - 矢澤豊
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リンク先の矢澤豊先生、極めて個性的な経歴に基づいての、貴重なご意見と思います。イギリスでも陪審制がそう尊重されているわけでもない現実を上げて、「あの当時すでに一般人による参審制度を推進するべく運動中だった皆様に大いに水をさしていたのでした。」とのお話、とても分かります。
米国では、イギリスよりは陪審が今でも重要視されているとの印象ですが、それは、立派な機能を果たしているためと言うよりは、人種問題があるがための仕方のない話、というふうに理解しています。少なくとも、特許侵害事件の陪審訴訟は、かなり馬鹿げた話で、判断のやり方としてはおよそ不適切な仕組みです。中世の呪術的な裁判と同じくらいのひどさではないでしょうか。電子機器の特許の侵害の成否を陪審に判断させるというのは、えり抜きの不適切な人たちに判断させているとしか言いようがありません。
刑事事件の場合には、これと違ってまだ合理性があるのは確かです。それは、人種問題のためです。黒人の被告人を、検察官も裁判官も皆白人という法廷で裁くのは、問題がある場合がありそうです。
日本ではそういう問題はないのだから、何もわざわざやらなくても良いでしょうに、というのがずっと私の見解でした。矢澤先生のお話とも一脈通じていると思います。
でも、今現在の考えとしては、少しは意義もあるのかも、とも考え直しています。矢澤先生とは、少し似ていてまた少し違う話ですが、現在の日本の刑事裁判は、余りにも有罪率が高くて、そういう意味で働きを失っているに等しいと思うのですが(といって無罪判決が出るのが良い訳でもないところが、難しいところですけれど)、その仕組みとして、検察官と裁判官が余りに“近い”仕組みにあることがある、と思うのです。単に法曹一元で近いと言うだけでなく(弁護士を含んでの一元はかなり留保付きですが、判事と検事は実際にいろいろと均質化していると思います)、大規模庁での公判担当検察官は、その裁判部に割り当てられているので、毎日毎日同じ顔合わせなのですね。余りに一体化しています。それで有罪率が高くなっている、ということもないとは思いますが、少なくとも、アドバーサリーシステムの建前に比べて妙な状況に見えます。
裁判員制度は、そうした状況に対して、外部からの風通しを良くすることは間違いないと思います。そういう点では意義があるのかも知れません。
(5月31日、誤字を修正)
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